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有馬温泉 その歴史

有馬温泉 その歴史

ここでは、有馬温泉の歴史について、ざっとふれてみたいと思います。

有馬温泉の歴史は非常に古く、 631年に舒明天皇が約3ヶ月滞在したことが日本書紀に見られます。さらに奈良時代には僧行基が温泉寺を建立し、中世では清少納言が枕草子で有馬温泉に言及しています。
1192年に僧仁西が戦乱で荒廃した有馬温泉を復興して湯治場としての原型を作ったとされていますから、その歴史の重みは非常に驚くべきものです。

それでは、有馬温泉の歴史について以下に示しておきます。
(参考:有馬観光協会公式HP)

出来事 概要
発見 有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されている。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していたが、数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられている。

 温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれている。

有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になった。日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けている。釈日本紀によると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛し、大化の改新から2年後の大化3(647)年10月11日から大晦日還幸までの82日間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数つれ滞在されたとの記述がある。
開創の行基 「有馬温泉史話」によれば、舒明天皇・孝徳天皇の度重なる行幸により世間に名をしられるようになった有馬温泉ではあるが、その後徐々に衰退に向かっていったといわれている。これを再興し有馬温泉の基礎を開いたのが名僧行基である。
 行基は聖武天皇(701〜756)の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し大きな業績を残した高僧といわれている。

 平安時代に入ると、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、また重臣たちも有馬を訪れたとされており、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いている。

つまり、当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていた、ということのあらわれであろう。
中興の仁西 承徳元(1097)年、天災が有馬を襲った。

「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とある。

諸説はあるが、この大洪水以後95年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したものだと考えられている。荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、吉野(奈良県)からやってきた仁西が有馬の再興を果たすこととなる。仁西は大和の国・吉野にあった高原寺の住僧であったが、ある時紀伊の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうける。それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものであった。

そこで、里人を集め泉源をさらえ、承徳の洪水より一世紀に及ぶときを経て有馬温泉の復興に成功した、といわれている。

温泉の復活とともに、仁西は温泉寺を改修し、12の宿坊を営んだ。これは源頼朝が鎌倉幕府を開く1年前、すなわち建久2(1191)年のことと伝えられている。12の宿坊の管理は仁西が吉野からつれてきた河上、余田氏らの平家の残党であったといわれている。

現在、有馬において「坊」の文字がつく宿が多いのは、このときの流れをくむか、あるいはそれにあやかってつけられたものといわれている。
再建の秀吉   以後、泰平の日々が続き、室町から戦国時代にかけての混乱期にあっても、入湯に訪れる人はひきもきらず、世上の混乱も有馬の繁栄にはさして影響を与えることはなかったとされている。 

仁西が有馬温泉の再興から三百余年を経て、享禄元(1528)年大火に見舞われ、有馬は焦土と化した。

また、天文14(1545)年には、善福寺後方の落葉山に城を構える三好宗三政長に対し、三木城主別所豊後守が大軍をひきいて攻めた折、有馬はその余波を受け大打撃をこうむった。さらに、天正4(1576)年にも大火があり、有馬は立ち直る間もなく壊滅的なダメージをうけてしまう。
 一方、明智光秀の軍を打ち破り、また柴田勝家、織田信孝などを次々と破って天下統一の地固めにもどうやら目途がついた天正11(1583)年、秀吉は有馬を訪れ、長らく続いた戦で疲れた心身を天下に名高い有馬の名湯で癒そうとしたものか、これが記録に残る秀吉入湯の最初である。
 その後も秀吉は再三有馬を訪れ、有馬に対してさまざまな援助を行ってる。

 秀吉の事蹟の特筆は、慶長2(1597)年に始まった大規模な改修工事である。この直接のきっかけは、前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震であった。
 建物の被害も甚大ではあったが、さらなる問題としてこの地震の直後から温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまったことである。湯治効果の大なることを熟知していた太閤は、文字通り英断をふるい有馬温泉の根本的な改修工事に着手することになる。

 秀吉の工事以来350年間、有馬町(有馬町は明治29年に湯山町から有馬町に改称)は一度も泉源の改修工事を行っておらずこの時の秀吉の英断がその後の有馬の繁栄に計り知れない影響を与えたことがわかる。
江戸時代を経て その後、江戸時代に入ってからの有馬は、さらに繁栄の一途をたどり、江戸時代の有馬は幕府の直轄領であった。

しかし、当時は現在のように各旅館内に内湯があったわけではなく、町内に元湯がひとつあるだけで、湯治客はすべてこの元湯に出かけるシステムになっていたという。

 また温泉の湧出量もさほど多くなく、秀吉の入湯、そして泉源の本格的な改修工事により温泉としての知名度が高まって訪れる人は増加したものの、当時の入湯の様子を調べてみると、現在の姿とはかなり異なっていたようである。

また、江戸時代後半になると、庶民も社寺参詣や、湯治に出かけるようになった。このような庶民の旅の手助けをしたのが道標である。有馬温泉にもこれらの道標がいくつか現存しており、有馬の街で見かけるけることができる。

参考:有馬観光協会公式HP

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